初めて言えた言葉は掻き消えた
087:判らなくていい、ただ君がすきと言うことを聞いて欲しかった
喧騒が嫌いではないのにこうして仲間から離れたいと思う時がある。ざわざわとした雑音はぼんやりしていると枝葉のこすれ合うような音を立ててアルヴィンを孤立させる。喧嘩が起きれば目をやるし避難もする。一人で身軽であった頃と違って今は言い訳をしなければならない仲間がいる。束縛を心地よく思うときもあるし鬱陶しい時もある。だからこうして年少の者たちが寝ただろうという頃合いに宿を抜けだして場末の酒場で喉を潤す。味の良し悪しより量と酔えるかが求められるから酒は強い。果実酒であっても酒精の度数は高く気軽に干すと痛い目にあう。グラスを傾けて舐めていると後ろが騒がしい。
子供は帰れ、という揶揄に対する返答の声がまだ高い。
「探している人を見つけたら帰ります、こんなとこ」
げふっと咳き込んでアルヴィンが体を折った。ジュードだ。なんだよもう寝たと思ったのに。ひゅうひゅうと鳴る喉を叱咤して声をかける。店の奥からの呼び出しに絡んでいた連中も引き下がる。場末であっても厄介事や暴力沙汰は避けるのが利口だ。ジュードの目がアルヴィンを捉えて近寄ってくる。手元の酒瓶と液体の満ちたグラスにジュードの顔がますますしかめられていく。酒瓶はあらかたカラになっているから遅かれ早かれ帰るつもりであったというとジュードは嫌そうな顔になる。
「急にいなくなるから。僕がどれだけ」
「悪かった。もう寝たと思ったんだよ」
ひょいとグラスを取ってきつい酒を舐める。
それを横からかっさらわれた。舌先に何も感じずに目をやるとジュードがグラスの中身を一気に干した。仰天したアルヴィンをよそにジュードはうむぅなどと唸っている。
「あほ! 結構度数きついぞ! ――…大丈夫、か?」
慣れない酒精に潰された経験もあるし見てきてもいる。ジュードの顔はみるみる赤くなっていくし琥珀の双眸はとろりと艶を帯びて重たげに瞬いた。
「…ぅん。へーき」
言ったそばからふらついている。これはもうジュードの動向に気づけなかったアルヴィンの落ち度だ。ため息をついて水を頼みながら隣の椅子へ座らせた。座っているのにジュードの上体は安定しない。泥酔している。まぶたは半分ほどしか開いておらずその焦点でさえも合っているか不明だ。医学を志していたと聞いているのにこれでは疑いたくもなる。急激な酒精の摂取による事故として死亡があることを知らないのか。
「アぁル、ヴィン」
ダメだこれ。返事もせずにアルヴィンは水を再度要求した。さっさと帰るに限る。ジュードに飲ませるぶんと自分の分だ。二人して酒臭く帰る訳にはいかない。
「あつい」
なにが。問う前にジュードが止め紐を弛めた。留め具もあっさり外していく。ばさばさと上着を脱ぎ落としていくジュードにアルヴィンのほうが泡を食った。
「なに脱いでるんだよ」
着せようとすると嫌がる。沸騰してるみたいに熱いんだ! 沸騰しているのはお前の頭だといってやりたいのをこらえた。
「…あついんだも…ん」
「見苦しいって言葉知ってるか」
「僕は顔とか変かな」
「顔っていうか頭だ」
ぶわわわわ、とジュードの目が潤んだ。半ば脱いでいる少年がさめざめと涙をこぼすのは悪目立ちしすぎた。アルヴィンはなだめたりすかしたりしてなんとか最低限のシャツを着せると水を飲めと言いおいて自分も含んだ。ジュードが飲み終わるのを見計らって上着を取るとジュードの腕を引いて酒場を出た。
かなりゆっくり歩いているつもりだが泥酔しているジュードの足運びはおぼつかない。時折転げそうになるのをアルヴィンが何度も受け止める。焦れてジュードを背負った。夜が明ける前に宿にたどり着きたかった。背中のジュードが静かだ。寝ているならそれでいい。酔っぱらいは下手に起こしても厄介なだけである。
「アルヴィン、僕がどれくらい君を探したか判ってんの」
「悪かったって言ってるだろ。もうみんな寝たと思ったから酒でも飲みたかったんだよ」
これならば酒瓶を持ち込んで嫌がられたほうがマシである。久しぶりの酒は酔う前に邪魔が入った。飲み直すような時間はないしお荷物付きだ。金銭的にも潤沢ではないからしばらくは我慢だ。
「ちがう。僕は、アルヴィンが、本当に、どこにいるのかっておもって」
「はぁ?」
思わず振り向くと琥珀を真っ赤に潤ませたままのジュードの顔がある。唇を引き結んで耐えているがこらえているのは泣き声だけでは無さそうだ。アルヴィンは黙って前に向き直る。面と向かっては言えないことを吐露しようとしているのだと思ったからだ。酔っ払ってタガが緩んでいる。
ジュードの手がぎゅうっと握り締める。アルヴィンは肩辺りに痛みと衣服の攣れを感じたが何も言わなかった。アルヴィンも仲間に言えないようなことを何度かやらかしている。わざと遠回りをした。宿が近づけばジュードは口を閉ざすだろう。道程を進むたびに襲ってくるモンスターのレベルも上がる。齟齬や諍いがあるならば早期に解決しておいた方がいい。
「アルヴィンはここになんかいないんだ。みんなの、僕の…僕のそばになんかいないんだ」
ごち、と硬質な音がして後頭部が痛い。身動ごうとしてジュードが顔を伏せていると気づいてやめた。うつむいている子供と女は厄介だ。関わらないに限る。そのうちにぽとぽとと滴が垂れる。黙っているとジュードが鼻づまりのままでゴメンといった。
「アルヴィンはいつも、僕達とは違うとこにいる。どうして? 僕じゃ、ダメ、かな」
答えない。アルヴィンは左へ曲がるべきところを右へ行く。ジュードをこのまま連れ帰れないしかと言って立ち止まればジュードは自分の所為だと気づくだろう。気を使うというより面倒事は避けたい。ジュードは道程での戦闘で重要な戦力だしその切っ先が鈍ってもらっては困る。ジュードは洟をすすりながら何度も、僕じゃダメなの、と訊く。
「ダメっていうかなぁ。お前もそろそろ俺なんかじゃなくってもっと真っ当になれよ」
「真っ当かどうかは関係ないッ!」
噛み付くように耳元で叫ばれる。アルヴィンは首を鳴らしてから振り向かずに言った。
「真っ当かどうかって案外重要だぜ。たいていのやつはそっちに流れるもンだ。そのほうが楽だしな。多数派かどうかって物事を左右するからなぁ。お前も判ってたほうがいいけど、人間ってやつは異端には冷たいもんだぜ。人種とかじゃなくてな。手っ取り早く言えば愛人の子とかさ。そういう、集落や所属からはぐれた奴に社会ってやつは冷たいさ」
「……なんでそんなこと、知ってるんだ」
「おたくよりは長生きだしな。色々見てる」
肩をすくめるようにして言えばジュードが黙る。そろそろ宿へ戻るかと頭の中で地図を広げる。自分たちの座標値と地図を照らしあわせてどこへいるかを認識する。
ぐり、とアルヴィンの髪にジュードが鼻先を埋める。風呂入ってねぇんだけど。うざったそうに首を傾がせるとジュードの手がぎゅうと掴むように抱き寄せる。
「おい、離せ」
ただでさえジュードを背負って重心の位置が違うのだ。そのうえで強い力で引っ張れれば二人して街路へ投げ出される。しかもジュードを気遣って人通りの少ないそうな道を選んでいる。何事かがあっても誰かが手助けしてくれる確率は低い。
「いやだ」
「ジュード?」
「いやだ!」
「おい、おたく」
「やだやだやだやだ! 嫌だっいや!」
「うおッおい待て」
バタバタと暴れだすジュードに手がつけられない。真後ろへ倒れこまない自分を褒めてやりたいくらいだ。しかも酒精で平素の抑圧が取り払われて無駄に力が強い。
「――ッ、くそ…」
どた、と二人して転がった。
幸いにも人通りの少ない街路であるから他人の目はあまり気にならない。アルヴィンは自分の上で呆然としているジュードを見てホッと息をついた。顔色も悪くはないし、体調が崩れるなら明日の朝だろう。アルヴィンを下敷きにしているからジュードはなんとか無傷だ。
「目ェ覚めたか?」
「…――な、んで」
「知るか。おたくに怪我されると俺が怒られるんだよ」
訊きながらジュードは退かない。アルヴィンが腕を押しても知らぬふりだ。
「酔いが冷めてるならもう」
どけ、は口の中へ飲み込まれていく。唇が重なった。二人で飲んだ果実酒の香りと味がビリッと舌先ではじけた。
「――ッは…!」
息継ぎの間にアルヴィンが何か言おうとして果たせない。すぐさまジュードの唇がそれをついばみ、摘み取っていく。二人の熱く濡れた吐息が鼻先をくすぐった。
「おい、待て」
ジュードの手がアルヴィンの襟元を弛める。そのまま喉を食むように唇が移動した。かりっとかじられてアルヴィンが鼻にかかった声を上げた。言葉ではなくこぼれた音に、アルヴィンの顔に朱がのぼる。言葉でなにか言ったほうがマシだった。感じているとしか思えない呻きはアルヴィンを追い詰めていく。
「…ッ、よせ…なに、…ッ」
ぞくぞくと腰が震えた。まずい。アルヴィンの体は徐々にジュードに降伏しつつある。
「…僕は、アルヴィンが好きだ。一人の、一人の男としてみて欲しい…守られるばっかりなんて、嫌だ」
「…は、ぁ?」
「すき、なの」
かく、とジュードの体が折れてアルヴィンの上に倒れ伏す。
「おい?!」
慌てて体を起こせばジュードは眠っている。気が抜けると同時に自分はこんな子供に何を期待していたのかと恥じる。馬鹿馬鹿しい。ため息をつく。呼吸を確かめる。泥酔の末に眠っているだけらしい。アルヴィンはなんとか背負い直すと宿へ歩き出す。力の抜けた人体は案外重い。相手のほうに気遣いがないぶん、純粋に重量のある物体になる。
「…くそ」
悪態をつきながらジュードの声が耳元でしたような気がした。
アルヴィンはここにいない
歯を食いしばる。いつもそうやってきた。同じ事をするだけだ。何も知らない奴と嘲るのも見下げるのももうやめた。自分がそれと大して変わらないのだと知ってしまったから。どうせ自分に判ることなど一欠片でそれを守るために、それを知るために、そのためだけに生きている。くだらないと笑われていいし、くだらないと笑ってやる。
「俺がどこにいたっていいだろ」
アルヴィンの背に揺られながらジュードの双眸が覗いた。アルヴィンは気づいていない。声が聞こえた気がした。泣いていた。ジュードの目が潤んで落涙し、閉じられた。
僕じゃあ、だめ、なのかな
好きなのだと思った。好きなのだといった。それがすべてだった。
《了》